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言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

よくある居酒屋談義の一つに「日本語は論理的思考に向かない」というものがあります。この論自体はおそらくほぼデタラメですが、根本的な問題提起を含んでます。すなわち

言語は思考や知覚に影響をあたえるのか?

といった点です。言語学では、この疑問に答える二つの派閥があります。この二つの派閥は、エディタにおけるemacs派とvi派のようにずっと対立しているわけです。

言語相対派
思考や知覚は普遍的なものではなく慣習や言語によって異なる。言語が思考を形作る。
生成文法
思考や知覚は人類共通の普遍的な仕組みである。言語を生み出す本能も人間に最初から組み込まれている。

言語相対派で有名な仮説が「サピア=ウォーフの仮説」です。ベンジャミンウォーフは、インディアンの言語研究を通し「西洋の言語とまったく違う構造を持つ言語を使うインディアンの世界観は、西洋のそれとまったく違うのだ!」という仮説を発表しました。これは「西洋的世界観、論理的思考は普遍的ではないのだ」みたいな議論とつながり、さらにニューエイジ的世界観と結びついて、1970年代に一大ムーブメントをおこしました。

しかし言語相対論は現在ではかなり分が悪いです。単純にウォーフの研究に穴がありまくりだったからです。たとえば彼は「時間を表す言葉が存在しないホピ族には時間という概念そのものが無いのだ」と主張しましたが、後の研究ではホピ族にも時間を表す言葉が存在することがわかっています。言語相対論に関する研究では、英語に翻訳する際の誤訳等により間違った結論を出すものが多く、信頼できる結果を出すことができなかったのです。みなさんも「Javaを使ってるプログラマは向学心の無い社畜野郎だ」とかいわないように。

現代の言語学の主流は生成文法派であり、基本的にはこの本の作者も生成文法派です(邦題とは対照的ですが)。しかし、言語が知覚や思考に影響をあたえる面もあり、なんらかの相関関係はあるだろう、という立場です。作者はこれを「言語はレンズである」という言葉で表現しています。

本書はこの観点にもとづき、言語と知覚に関するさまざまなエピソードや実験が紹介されています。本書はこういうトリビアな知識を楽しむ本かもしれません。順不同で紹介すると、

古代ギリシャ人は青色をしらなかった?

古代ギリシヤのホメロスの叙事詩には空や海の青色を表す単語が全く存在しない。古代ギリシヤ人は葡萄色の空を見ていた? そもそも殆どの文化圏では青色を表す言葉が出現するのはある程度文明が発展してからである。19世紀の知識人にはこのことを知り、古代の人に色覚はまだ発達していなかった、と結論づける人もいた。

方向を前後左右ではなく、東西南北の絶対座標系で表現しなくてはいけない言語がある

オーストラリアのある部族の言葉では、あなたの右側になにかおちていますではなく、あなたの東になにか落ちていると表現しなくてはいけない。そのためには彼らは常に東西南北を意識している。我々が同じ間取りと判断するホテルの一室も、方角が逆なら全然別の間取りだと判断する。

女性名詞のスプーンは女性らしい?

ほとんどの言語では車道は男性名詞、歩道は女性名詞、など名詞に女性形と男性形があるが、それは知覚に影響するのか?

言語が違えば空の色が違って見える?

日本では伝統的に緑色のものを青と表現している。国際的に「進め」を表す信号の色は実際には緑であるが、アオシンゴウと表記している。気弱な政府ならば、ミドリシンゴウという表記に改めるところだが、日本では信号色を日本語に近づけるという判断をとり、緑の中でも一番青っぽい色を信号色に採用した。(このエピソードは凄く日本っぽくていいなーと思いました)

などなど。もちろん古代ギリシヤ人が青色を認識しなかったわけじゃないし、オーストラリアのとある部族が左右を認識できないわけでもないし、われわれ日本人も緑色と青色の区別はしっかりできます。ただし、近年のMRIによる測定によって言語やその言語が生んだ習慣は、人間の知覚や思考にある程度の影響を与える可能性があることも分かってきたようです。

本書の結論は邦訳タイトルに反して若干フワフワしています。「言語が違えば世界もちがって見えるわけ」が説明されているわけではありません。というよりも脳の仕組みを完全に理解し、シミュレートできないかぎり、きちんとした結論を得られることはないだろうし、それは何百年先になるでしょう。現在はようやく科学的な取り組みが始まったばかりの段階です。かといって、言語学者はあきらめないで研究していきますよ!という宣言で本書は結ばれています。